Journal Hinoko Ameno

新米かあさんの記録です

幽霊はいるのか

 

 

テレビは見ないのだけど、

 

登録はしていないが Twitter はたまに覗きにいく。お気に入りの人のアカウントなんかに。

 

Twitter なり Instagram でも

あれやこれやと いろんな意見が行き交って、それを読んで「そうだよね。確かに!」と自分の感性とシンクロするアカウントなんか見つけると、わたしまで メラメラしてきて、「そうでない人」を 説得して 改心してもらい こちら側に引き寄せたくなる。

 

違う意見の人と それに同調する人たちの人数の太刀打ちできなさそうな 多さに、腹わたがフツフツして 急に途方に暮れる

 

 

 

......................

 

幽霊は いるのだとおもう

 

 

わたしの世界には いない

 

 

わたしの世界に いないからと言って、すなわち「幽霊はいない」と言うわけではない

 

幽霊は 「いる」人の世界にはマジに「在る」のだと思う

 

 

そして その人の感覚器官とか神経を マジで反応させるんだとおもう その人の一日に事実として轍(わだち)を残すんだとおもう

 

一個人が信じるものの集まりが、その一個人の世界を形成するすべて。

 

 

幽霊を感じた人に対し「いないよ。どうかしてるんじゃない?」と言ったり

幽霊を感じない人に「憑かれている!」といきなり塩をまぶすようなことは

 

他者を尊重していないというか、

違う言語同士で口論しているような感じ。

 

いないし、いる。

 

どちらも紛れもない真実で、どっちもN極なのだから合致することはない。

 

 

COVID19

(わたしの世界では)  気にしていない。

 

存在はするということは知っている。見たことはない。

また、「気にしている人もいる」んだなということを知っている。

 

つい最近は不意打ちで、「気にしている人たち」に 強制的にアルコールを塗される。1歳の息子にも。

 

わたしはそれが泣きたくなるくらい大嫌いなのだけど、(COVID19 以前から)

その人たちの領域に立ち入る儀式だ。

仕方ないけど、そのような場所には行かない。

 

自宅に帰ったら糠床をかき混ぜてホッとする。

 

 

 

肺炎球菌も

(わたしの世界では)  気にしていない。

とゆうか「赤ちゃんの予防接種の項目にあるなー」くらいで、この COVID騒動で 肺炎球菌のことを 少し知ったのだ。

 

インフルエンザは 、

(わたしの世界では)  けっこうビビってる。自分単品でかかるには構わない。しかし息子が産まれてからだいぶ神経質になった。

 

 

....................

 

自分と違う意見の人を改心させたくなる衝動

 

久しぶりにこんな熱い気持ちを持った

 

しかし わたしは そんな衝動を持って実行して、納得がいった試しがない

 

 

それより やることが山積みなのだ

 

改心させたくなる衝動は、夫だけに当てれば良い..笑

 

 

 

幽霊のことは そっとしておく

 

 

いる、いない

陰、陽

 

の世界から離れて 目の前の仕事にとりかかる

 

 

 

 

ただ 「塩」だけは 御免だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小枝をくべ続けろ

 

 

 

過去に つくったものは 私のものでありながらも 今の私の生命ではない

 

絵も 文も 子孫も タペストリーも 読書も

それら は、それはそれで 別個の精をもって およそで課外活動をする

 

 

別の人間がつくったもののようだ

 

 

わたしはわたしで 内部の炎を燃やして 縦横無尽に活動の枠を往来する

 

 

いまここで 日々、活動 製作 学習 している  何か意図的な、ものを作る一環としてのエネルギッシュな行為とか

または意図的ではない 水面下の行為 行住坐臥とか 呼吸 すらも

 

一環でありながら

その全体の有り様は、どこを切り取っても完結した美的作品である。

 

完結しているのだけど流動しているのだ。

未完結の完結、完結の未完結である。

 

 

 

 

 

やり続けること。

 

小さい炎でも 燃え続けること そのもの自体が 美味しい肉を焼きあげることより それにありつくことより

 

もっともっと 瑞々しく 肉々しく

生きているような感じがする。

 

 

 

「生きて」

さて、

なにを創るか

 

 

 

 

 

大人の鍋から離乳食を派生させるって意外と難しかった話

 

 

 

 

「離乳食なんて 大人のとりわけでいいわ。」と、一年前のわたしもそう思ってた。

 

 

これがなかなか難しいんだわ。わたしは、できなかった。数回試みたが 続かなかったということは、我が家にとって不合理だったのだろう。タイミングが合えばやっていたくらい、だな。

 

 

大人料理から離乳食の取り分けといえば よく味噌汁なんかが例に挙げられるが、まず味噌汁を作る余裕とモチベーションが1年近くなかったのだ。なぜか食べたいとも思わなかった。作る日もあるけれど、赤ん坊の食事は「毎日」のこと。毎日味噌汁やスープをつくり、しかも赤ちゃんが食べられるレベルの柔らかさまで煮るということは、考えただけでもう味噌汁分のカロリーを消費しそうだ。

 

 

大人料理から離乳食へ派生させれちゃう人たちは、きっと毎日、大人料理をつくる習慣がきちんと染み付いている人だとおもう。古来の日本に多かっただろう嫁さんが一家の飯を姑さんと煮炊きしているようなご家庭や、今でも大きなお姉ちゃんお兄ちゃんがいて毎日の食事に規律があるような...そんなご家庭。

 

 

 

夫と私と、赤ちゃんひとり。

平日は「おとな食は皿ひとつで済ませたい...」その一言。

 

 

何も考えずお米に刺身のっけて食べたり、散歩がてらパン屋さんでサンドイッチを買って公園でたべたり、赤ん坊の機嫌が悪い日は 素うどんや納豆ご飯を食べていた。テーブルマーク社の「丹念」という太い冷凍うどんを湯がいて、醤油と七味をふって食事していた (うまい。酢橘をかけると尚)。とにかく炭水化物頼りだったのだ。「もっと簡単に作れる献立があるのに」という声もありそうだが、「もっと簡単に作れる献立を探そう」という発想をもつエネルギーは赤子の泣きを収めることに費やされた。

 

 

なので大してエネルギーを摂取できなさそうな汁物は休日の贅沢品のような扱いだった。小鉢のオカズなんてもってのほかだ。

 

 

 

正直、一年近く、平日の夕飯に何を食べていたかいまいち思い出せない。もちろん煮込み料理を食べていた日もあるし、夕飯を断食にする日もあった。

 

夕飯断食は、楽だ。妊娠前から夫婦で、ごく自然と夕飯をとらない日があったのだ。

 

 

 このように大人の食事にもムラがあったから、離乳食は離乳食として小鍋で煮炊きして、一からオヤキをチマチマ作ったり そちらの方がメリハリがあってわたしには楽だった。

 

 

 

そんな日々を繰り返す中で、「離乳食 卒業」という兆しが見え始めたのだ。

hinokoameno.hatenablog.com

 

 

というわけで、今夜の夕飯はつぎのようだった。

 

イカ三つ葉の炊き込みご飯

・カブや小松菜など具沢山(冷蔵庫一掃..)みそしる

・薬味たっぷり厚揚げ

・黒胡麻豆腐

・塩辛

 

ここ何日か、こんな風な

大人の飯に焦点をあてた食事が増えてきたのだ。

 

かつては 一人で離乳食を食べていた息子。

いまや息子の小さなチャブ台をかこんで3人で、2人で食事する傾向になってきた。

 

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上の過去記事で紹介した幕内秀夫氏の書籍にもあるように

息子は 自分にとって合わない、危険な食物は、自ら食べない。

味噌汁の具も、予想通り小松菜と...柔らかいカブラも(泣)盛大に残してくれた。もちろん好き嫌いもあるだろう。

 

でもそれでいい。夫も「そのうち食べるようになる。」という。

 

もう大人と同じ味噌汁から派生させるとき「小松菜をみじん切りに」しなくていいのだ。舞茸をみじん切りにしなくていいのだ。だって食べるときは4cmの人参も食べたもの。

 

 

小さなものや 柔らかいものしか受け付けないのかなーと思っていた息子。

昨日のお昼に、なんと切り干し大根を炊いたら食べてくれた。スライス椎茸までも!!! 

えー!あなた椎茸タベレルンデスカ?

 

息子に媚びて、離乳食じみた、1cm角の食材をつかった煮込みの方が不評だ。

 

もう赤ちゃんじみたやつ食えるか、ってことかな。

 

 

 

塩分も大丈夫。塊も大丈夫 。ダメなやつは本人が勝手によけてくれる。

おやつもオニギリでいい。

 

 

アドバンテージが増えてきた。

はあ、楽だ。

 

 

 

 

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離乳食から幼児の食事へ 読んだ本の影響もこめて

 

 

「子どもをじょうぶにする食事は、時間もお金も手間もかからない」幕内秀夫/ダイヤモンド社 という本を今日読んだ。そこには私が信じていた、そうなんじゃないか、と思っていたことが書かれていた。

 

 

子どもは〝食べていい色、悪い色を見ている〟〝食わず嫌いは正しい判断〟という項目だ。

〝食事でもっとも大事なことは、危険なものを口にしないことです。有毒な食品をぶつけられても大した問題ではありませんが、口にしてしまったら命に関わることさえあります。お母さんがお子さんに向かって、「まったく、この子は食わず嫌いなんだから」と叱っていることがよくあります。しかし、子どもが正しいのです。毒のあるものを口に入れてしまってからでは遅いこともありますから、食わずに判断するほうが賢明なのです。見て、匂いを嗅いでから口に入れる方が安全です。「子どもをじょうぶにする食事は、時間もお金も手間もかからない(幕内秀夫/ダイヤモンド社」より

 

息子が産まれる前、いや妊娠すらしていない時、ヒトは自ずと「いまの自分に最適な食べものは 自分が いま 食べたいもの」という信念があって、自分もそれに従ってきた。無農薬の野菜でレシピ本をみて丁寧に食事作りをするときもあれば、マクドナルドのポテトに牛乳を合わせる日もあった。ヨーロッパから帰ってくると肉の入った煮込みを食べ続け、ベトナムから帰ってくるとヌクマムとニンニクで香り立てた一皿を食べ続けた。寺に泊まったあとは精進料理をせっせと作った。

 

子が産まれ、生後6ヶ月にもなると子の食事作りをするが、息子は 自分が噛めないもの はしっかりと吐き出す。息子に吐き出される則ちそれは 今の息子の躰に不適切な食材か、不適切な調理(例えば固さ具合)のどちらか、と信じていた。

 

子どもはきっと、自分の消化器に負担をかけるような 傷つけるようなものは 本能的に吐き出すのだろう。だから息子が口にしないものは 今はやめておくか一工夫する。

をずーっと続けてきた。

 

しかし、ここ最近、教科書通りの硬さの、人参やブロッコリーを断固拒否する息子に不安になっていた。

「結局、そーめんしか食べなかったな...」

「むすこがそれらを食べないのは、わたしが息子に合わせて柔らかく煮たものばかり与えたからじゃないか」

「むすこの歯が(標準に比べて)なかなか揃わないのは柔らかなものを与えたからかも」

 

と、、、毎日3-5食の食事作りは工夫と調整の日々だった。

 

 

しかし、先月のこと..

 

1歳4ヶ月....食事を見直す きっかけとなった革命的なできごとがおこる

息子が産まれた助産院の食堂にランチを食べに車を山まで走らせた。息子は私たちの、大人の小鉢を、ペロリとたいらげた。家では食べる事なんて想像もつかなかった4cm程の固めのキンピラ人参も、キュウリの塩麹漬けもバクバク食べた。これは私にとって衝撃だった。

何故だろう?味付けがしっかりしているからか、ごま油などの風味があったからか、あるいは大人の鉢からおすそわけしてもらってることが特別な食欲を沸かせたか... (息子はスプーンで食べてくれないものでも 箸でヒナにそうするように口に運んだり、大きな計量スプーンをもたせてやると食べるということがよくある。)

 

そんなことがあって、息子の食事も実は大人と同化できる過渡期にあるんだなと気付かされたのだ。

 

 

それと同時に、「大人と一緒のものを共有できるってことは、もう離乳食めいたものを特別につくらなくてもいいんじゃないか!」と走り続けてきた私にブレーキがかかった。わたしとて、楽したいしサボりたいし、たまにはそうしている。けど猛スピードで走っている渦中はまわりは見えないのだ。

 

 Amazon で子どもの食事について、もっと楽な考えを...と そのような本を探した。

 

若杉友子さんの「一汁一菜子育て法」という本を、この幕内秀夫さんの本を知り、ざーっと読んだ。

 

幕内さんの本には、昔は子どものための食事は特に作らず、家族のための食卓から、子ども自身が食べられそうなもの(自身にとって安全なもの)を選択して食べていた。もしおかずで食べられるものがなかった場合、ごはんと味噌汁に海苔や漬物ですませそれでも十分だった。そんな内容が書かれていた。

 

私を楽にした両者の共通点は

「おやつはおにぎりで十分」ということ。「たくさんのおかずを作る必要はない(幕内さんは もはやおかず抜きのオニギリ+味噌汁のときがあっていいという)」ということ。

その他の共通点「砂糖は良くない (逆に塩に関しての制限は書かれていなかった。むしろ若杉さんは自然塩や醤油の塩気を推奨している。)」「玄米か、玄米を何割か精米した 分つき米を推奨」ということだ。

 

食事作りは 煮炊きだけでなく、献立作りにもエネルギーをつかう場合もある。

 

あとがき

息子が1歳になる手前から、私の1日の半分以上は「食事」のことで頭がいっぱいだった。朝ごはんをくずる前に用意して10時のおやつどうしよう、お昼の買い出しにいかなきゃ、15時のおやつは今のうちに仕込もう、夕飯のためのタンパク質のものを買いにいかなきゃ....その分、洗い物も増えた。

じつはこれを嫌々やっていたわけじゃない。これは私の趣であり、自然な行動だった。息子のために「栄養を摂ってもらわなきゃ」というより、「栄養を考えていること」自体が好きだった。むしろ乳幼児と長いこと遊ぶことが苦手だから、食事作りは素晴らしい息抜きになっていた。

台所で黙々とあれやこれやすること、いろいろ調べて納得して、実践することが好きだった。(柵の外の、息子には反感をかったが趣味なのだからしょうがない)

 

苦だけど苦じゃない。

 

しかしもう離乳食作りは終わりなんだな、同じ皿から食べていい時期にさしかかっている過渡期なんだな、と判明し、とたんにシンプルでいたくなった。ようやくこの時期がきたかー!と楽したくなった。

 

 

書籍ひとつとっても、採用する思想、不採用する思想は あるにしろ...

 

今回読んだ 若杉友子「一汁一菜子育て法」、幕内秀夫「子どもをじょうぶにする食事は、時間もお金も手間もかからない」は、

宙に浮いた私の下に、器をつくってくれたような。

ここまで楽にしたって、尚大丈夫なんだよ。

むしろ適切なのかもよ。と保証人になってくれたような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薬膳甘酒蒸しパン

 

 

 

1歳1ヶ月、息子の食事は1日5回。

 

7-8時 朝ごはん

10時  スナックタイム 

12時 昼ごはん

15時 おやつ 

 

10時の「スナックタイム」は ボーロ、クラッカー、チーズ、豆などすぐに提供できる乾きもの。15時のおやつは、焼き芋のような季節の食材と、蒸しパンとか肉まん、おにぎり、などネッチリしたもの。

 

1日5回の食事にして かえって気が楽になった。メインのご飯を大雑把に作った時や足りないかな?っていうときも、おやつがあるしまあいいか、と救われる。いままでは3回の食事を一食入魂と入念に作っていましたから。そして1日の中の節目が増えたことで息子と私にも暗黙の生活の流れができた。

 

手作業は人間の本能的な喜び。(騒ぐ、足にまとわりつく..)息子といながらにして 粉をこねている作業は私の息抜きになっている。だから気晴らしにおやつをこさえる。たまに苦肉の策で 小麦粉粘土をこさえて 息子に作業をしてもらう。その隙にわたしも作業。

面倒な時はスーパーの焼き芋やバナナを買ってくる。

 

今日の15時おやつは「薬膳 甘酒蒸しパン」

薄力粉とベーキングパウダーをふるって 甘酒(菊水の十六穀甘酒)を入れて混ぜる。器(小ぶりの茶器や酒器でも)に12cm四方ほどのクッキングシートを敷く。クッキングシートは切り込みをいれて器に添わすと良い。そこに生地をスプーンを使って入れる。小ぶりの中国茶器で作ったから 1つあたり 大きなサジ2回分くらい。

めんどうなときは大きく裂いたクッキングシートを蒸し器に敷いて、直にボト ボト っと生地を落としたりもする。

余ってた枸杞の実をのせる。

 

せいろで8分

 

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穀物の色素が滲んで ほんのり桃色の蒸しパン。不思議と桜の風味がする。

菊水の甘酒はいくつか冷蔵庫に入れておこうか。

余りはラップに包んで冷凍して、食べる前日に自然解凍。朝ごはんにもいい。

 

 

 

 

床から80センチの世界

 
 
掃除は好きですが 片付けは大の苦手です。
 
冷蔵庫の奥から乾燥してカラッカラなゴボウがでてきて友人に爆笑されるし 綺麗好きの友人が わたしの部屋に驚き 勝手に掃除をはじめることも。
 
しかし大学3年生くらいからミニマリストの精神が宿ってきました。
そのときに手に取ったお片付けの こんまりさん の本の影響もあるし、なにより専攻していたグラフィックデザインの影響が大きいです。
わたしが認知している「デザイン」とは最低限の要素でベストな物事を構成することだと思っています。
視覚的ではなく精神的に すべてがベストで無駄ないことです。(デザイナーがデザインのために 意図的に「散らかす」ことも無駄がないという意味に含まれます。)
 
 
同調した夫とふたりでベストな、片付けの手間が極力少ない家を保ってきました。(それでも服、脱ぎっぱなしにしますよ わたし)
 
 
 
やがて妊娠して いろいろな物を所有する必要がでてきました。
いままでの大人だけの生活用品じゃまかなえない物品を所有することになります。
 
小さな住人をお迎えするために
衣類、オムツに哺乳瓶、それを収納する場所や清潔を保つ道具。抱っこ紐にベビーカー、赤ちゃんとの生活をちょっぴり楽にしてくれる道具。
 
選んだ全ての品が その子の気質に マッチするとは限らないので(販売サイトで高評価な商品であっても…!)
購入はまるでギャンブルでした。レンタルという手段もありますが。物選びはたくさん失敗しました。やっぱ違う、やっぱ違うの繰り返し。
少しでも楽になりたいから 余剰な物品もたくさん買ったり 売ったりしました。すべてわたしたちの都合で、赤ちゃんが欲しいのはおっぱいだけで、物が欲しいなんて 彼はちっとも思っていないんですがね。
 
 
 
 
 
赤ちゃんじゃなくなった息子。
 
歩き回る小さな住人の身体や動線に合う家具は、ほしいです。
うちには台所を除き、棚すらないから。
 
 
夫と一緒に わたしたちのライフスタイルと 息子との生活を どう馴染ませていくか 試行錯誤しています。いまのところ玩具は贈り物とレンタル、手作り。
 
 
住居空間は上下二層の生活空間がある、ような感じが心地よい。
 
 
大人の目線においては そのままで
小さな住人の世界 床から80cm程度の世界は 彼の世界。
 
 
床から80cmの世界は小さなギミックを散りばめた 小人の通り道に。
 
 
 

 

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父タカオがもたらしたトラウマと恐怖 こどもは傷つきやすいよ

 
 
昨夜、わたしの野良父、タカオの存在を紹介させていただきました。
 
休日なのに乳幼児の母らしく定例の5時(泣)に起きてしまいもう少し父のことを書けるかな、と自室でせっせとタイピングしています。
息子の飯は主人がつくることでしょう。
 

 

さて、

 

小学校教諭で仕事を愛するわたしの母は土日でも仕事に精を出していたので平日は祖父母と、土日はタカオと過ごした。

 

タカオも小学校教諭だけど、特別支援学級のためか土日は熱心に仕事をしていなかったと思います。

というか母が熱心すぎ。

 

 

休日の片方は学校に行っている日もあって、それは父が趣味で学校につくってしまった畑の手入れのため。

ほんの数回わたしも連れられて誰もいない休日の小学校、わたしにとっての他校へ遊びに行った時は

父の庭(正式には学校のだけどな)ではサルビアとかトマトやナスだとかそんな植物を栽培していて ウサギに餌をやったり 校庭周辺の大振りのヤマモモを採集して食べたり 支援学級の教室に入って そこで花をスケッチしたこともあります。

 

そんな日は父はなにか忘れ物だとか用事があったのかもしれません。

支援学級の教室にはおもちゃ(?)がたくさん置いてあったり、ストーブがあったり「いいなあ!」と小学生のわたしは思ったものでした。

 

父自身がこのように趣味に傾倒する性格なので、ハードワーカーでないことがわかりますでしょう。

実家に住んでいる私の妹も現在は小学校教諭となり、若手のためか 休日もバリバリ仕事をしていて

「もおおおおおう!ママとユカちゃんは仕事しすぎだよおおおおお!!!!」と父はプリプリしていたそう。

苦笑しながら妹が教えてくれました。

 

 

そんな父とすごす日々は楽しく奇異で恐怖でもありました。

彼は子どもの心をもつ人。です。

 

 

きょうは植え付けられたトラウマのふたつを紹介します。

 

 

 

エピソード1

題名「七夕」

 

 

わたし3、4歳だったかな。

母方のじいじばあばと、母、タカオと5人でイトーヨーカ堂に行きました。

イトーヨーカ堂というだけでテンション爆上げ。

しかもばあばと買い物だから、サンリオショップでたくさん買ってもらえちゃうなーとエントランスをくぐりました。

エントランスをくぐった先にに大きな笹の木が。七夕の季節。

よくあるように、近くに小さい机と短冊とペンが!

 

文字が書けたか書けなかったか、わたしはお願い事を短冊に託しました。

でも くくりつける紐がないのです。在庫切れです。

わたしが「紐ないやん」と気づく前に 横にいたタカオが「ハイ」と細い紐を差し出しました。

 

髪の毛です。自分の毛髪をブチっと抜いて「臨機応変に」対応してくれました。

 

 

 

 

ドン引き。

 

 

 

 

 

ひょっとしたら私の人生の中で記憶している最古の「ドン引き」という感覚。

 

 

髪の毛って自分で抜くことができるんだ、という幼児らしい驚きとともに

きたないんじゃないかとか

もう切り取られた「髪」に「死」のような 漠然とした不安をもって

今でもその気持ちを再現することができます。

今ではこのように言葉にできるけど 当時は 意味のわからない感情でいっぱいでした。

 

 

 

 

「・・・・いいの?」

 

 

 

 

そんな返答をしました。

記憶はそこでとぎれているので短冊が飾られたかどうかはしりません。

 

父はそれを実用的な意味で私に渡したのか

それとも「恐怖」をうえつけるために渡したのか、しりません。

 

 

父にはそういう面があります。

子どもが傷つきやすいとわかっていて、わざと皮肉的な意味で「ささやかな恐怖」をうえつけることを楽しみにしているような面が。

遊び心なのでしょうが。

 

 

 

わたしは毎度本気で受け止めます。だって子どもだもん。

 

 

 

 

エピソード2
題名「ドッグフード」

 

 

母がたの祖父母、通称じいじとばあばの家が大好きでした。

 

母はその家でベビーを里帰り出産して産まれてから1歳頃まで、じいじばあばの世話になりました。

タカオと母と私はこの家の近くに一時的に小さなアパートを借りて住んでいました。

 

後に私の実家となる、父がたの祖父母の家 から車で1時間もかからない場所にあります。

タカオの職場はそちらにあるので、彼は車で毎朝通勤していました。

 

じいじばあばの家を離れたあとも

月に1回は「お泊まり会」と称してしょっちゅう遊びにいっていた思い出の家です。

 

その家のつくりはこんな感じで

 

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丘の上に建っているので2階に玄関と駐車場があり、更に3階

そして庭と同じ位置に1階がある、というつくりでした。

 

屋外の駐車場には荒いコンクリートでできた階段があって、そこを下っても庭に通じます。

庭にはタローという雑種の犬が放し飼いになっていました。母が大学時代にいきつけの美容師からもらったワンちゃんです。

 

 

トラウマ記憶は、そのタローを階段で観察していた場面から始まります。これも私が3、4歳かなあ。

 

 

その日、タカオは階段に腰掛け わたしはタカオに腰掛けタローを観察していました。

犬が恐かったので (今でも!) 階段から庭を行き来するタローを見下げていました。

 

 

しばらく無言な時間。

 

 

すると父が突然、足元に落ちていたカリカリドッグフードを食べてみせたのです!

 

そしてもう一粒!

 

 

「!!!」

 

 

彼は、おちゃらけて食べてみたのでしょう。

 

でも「犬の食べ物を喜んで食べている」ことが恐い。

 

異種の食物を食べている。

死んじゃうんじゃないか?食べることが可能なのか?

まさか父は犬人間なんじゃないか……!

 

 

変な感情がぐるぐる。これもドン引きしました。

だから今でも憶えています。

どう反応したかは憶えていない。

 

 

 

 

 

…………………………..